solipsistic blog

世の厭わしげなる様を 憂えざるべからず

経路依存性

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 アタシは昔は西部さんが好きだったけど、ここ数年はつまらないねえ。西部さんが、というよりも水島氏の話の方が心に響くようになったと言った方がいいんでしょうけど。あ、この討論番組はチャンネル桜さんの看板番組で、アタシはまあ毎回みてるわけです。そこに西部さんもたまにでてるってわけです。

 最近じゃあ、いつだったか西部氏の「盟約」の話がなんとも面白くなかった。

 或るところに男が三人あつまる。そこで「神は必ず存在する」と盟約するわけです。その盟約を破ったらただじゃおかないとお互いに固い固い約束する。これはキリスト教圏の話で、異教徒がそこら中にいるわけですから、脅されて改宗していては自らの信ずる神も消えてなくなってしまう。だから、そう云う状況では盟約も必要だったかも知れません。だけど、これは盟約する「自分」という存在が最前提になっていて「自分←→盟約←→神」という相互の関係、つまり実存的な世界観における実存的な関係になってしまうわけですよ。

 此れに対し、水島氏は「男が三人集まることも、盟約することも、本質から生み出される現象なんだ」と返していましたねえ。本質ってのは、西洋的な本質でなく仏教世界的な本質ってことです。盟約とかいうもんがあってもいい、だけど盟約さえ日本では「現象化」するってことです。仏を本質として、此の世の現象は「仏の雫」って感じですかねえ。そう返されても、その回の討論では最後の方で「やっぱり盟約が大事なんだ」と西部さんが繰り返し、西部側陣営の人たちは「ウンウン」と深く頷いてまして、まあ「しょうがねえなあ」とアタシは感じた次第でしてね。

 西部さんにうすうす感じていた違和感を最初に明確化したのもこの討論番組でして。そのときには小堀桂一郎氏が出てた回でした。何の話題か忘れましたけど、西部さんの意見に対して小堀さんが「私はねえ、だから社会科学ってもんが嫌いなんです」と思いっきりケンカをうっちゃってまして笑いましたねえ。小堀さんから見れば西部氏は「所詮、理屈の手品師」ぐらいにしか見えないのでしょう。アタシも若い頃はさんざん惚れ込んでおいてなんですが、そういう風にしか見えなくなっちゃったわけですよ。西部さんは自分の論をいつも理屈で固めてしまって、理屈を話すときの「姿勢」「生き様」という背景がないがしろになっちゃってるんです。だから、歳をとってくると(アタシがね)伝わってこない。逆に、西部さんなどから批判されたアメポチの岡崎久彦さんや渡部昇一さんの方が(昔の映像を見てみると)面白いと感じてきちゃうんですなあ、これが。もちろん「人間的に」ですよ。表情、生き様、姿勢です、画面を通しての朧げなものですけど。

 

 さてこの討論に出てくる佐藤さんの「経路依存性」。いやあ、まったくつまりません。

 今ある絶望的な状況を、社会科学的な表現で、まるで手品師のように上手く言い当てたかように振る舞って見せたところで、水島さんにはまったくつまらないってことなんでしょう。経路依存性という表現自体も実際つまらないし、そうじゃなくて経路依存性が生み出す状態を、経路依存性という言葉を使わず、つまらない言葉でもいいから「心に響くような表情」で、もっと言えば「涙を流すように」「地獄で悲鳴を上げるように」言ってほしかったじゃないでしょうかね? そうしないと何も変わらないということが分かってるから、佐藤さんの親になった気持ちで、彼の「社会科学に閉じこもる言論」をもっと生きたものにしたかったんじゃないでしょうかねえ。

 

 経路依存性ですか、まったくつまりませんなあ。

 

志ん歩